学習療法の理論と効果について
脳の基礎知識
脳は大きな一つのかたまりではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれています。大きくは、大脳、小脳、脳幹とよばれる三つの部分に分かれます。この中で人間としての特徴を一番表しているのは大脳です。大脳は、さらに4つの部分に分かれます。頭頂葉には体に触れる触感を司る体性感覚野があります。両側の側頭葉は音を聞き分ける聴覚野がある所です。頭の後ろは後頭葉。物を見るための視覚野があります。そして額の後ろが前頭葉。手足や体を動かす運動野と前頭前野と呼ばれる部分から成り立っています。
前頭前野は、人間の大脳皮質の約30%を占める巨大な領域です。この割合は人間がいちばん大きく、高度な脳活動をすることで知られている類人猿でも、10%以下でしかありません。前頭前野は脳の進化の中でも最後に発達した部分であり、生物学的に見た人間の特徴は、大きく発達した前頭前野を持つ動物である、ということができます。学習療法の研究にあたり、東北大学の川島隆太教授はここに注目しました。

前頭前野の働き
人間の前頭前野には、下図のような働きがあります。

これらは、まさに人間を人間たらしめている高次の機能です。つまり、前頭前野は“人間の心”そのものといえるでしょう。
また、前頭前野が命令を発することで、脳の他の領域の機能が働くという点で、「前頭前野は、脳の司令塔」ということもできます。
音読と簡単な計算が前頭前野を中心とした脳全体を活性化する
川島隆太教授は、fMRIという装置で、何をしているときに前頭前野を中心とした脳が活性化するのかを調べました。その結果、簡単な計算問題を解いているとき、本を音読しているときに活性化することが分かりました。
プロフィール
1959年、千葉県千葉市生まれ。
東北大学医学部卒業。同大学院医学研究科修了。
スウェーデン王立カロリンスカ研究所客員研究員、東北大学助手、講師を経て、現在は東北大学加齢医学研究所所長。脳のどの部分に、どのような機能があるのかを調べる「ブレインイメージング研究」の日本における第一人者である。

東北大学 加齢医学研究所
所長 川島 隆太

fMRI(ファンクショナル・エムアールアイ)
MRIは、磁力と電波を使って、脳の断層写真などを撮ることができる装置。その撮影の際に、特殊な撮影手段で脳血流量の情報を脳の写真の上に現す方法。
fMRIで見る脳画像。赤い部分が多いほど活性化していることを示します。

コミュニケーションが前頭前野を活性化する
光トポグラフィーという装置を使った研究結果から、音読や計算をしているときと同様に、人とコミュニケーションしているときも前頭前野が活性化することがわかりました(下の写真)。脳を鍛えるためには積極的な語りかけ、対話が大切なことが脳科学からも証明されたのです。
学習療法では、学習者と学習支援者とのコミュニケーションが、学習効果を高めるために重要な役割をはたしています。教材を介して学習者と明るく楽しくコミュニケーションを図ったり、学習者を認めることや誉めることが大切です。
認知症の症状が重い方が学習する場合には、特にコミュニケーションを十分に取ることが重要だと考えられています。
fMRIや光トポグラフィーなどの装置を使って繰り返した研究の結果、川島教授は「簡単な計算」と「音読」、「コミュニケーション」が人の前頭前野を中心とした脳全体を活性化することを明らかにしました。そして、このことが脳の機能自体を高めるのではないかという仮説を立てたのです。まさに学習療法誕生の前夜ということができます。

光トポグラフィー
この装置を使うと、近赤外線を用いて簡単に脳の表面の神経細胞の働き具合を調べることができます。活発に働いているところの画像は赤くなります。
光トポグラフィーで見る脳画像

脳機能イメージ研究でわかったこと

なぜ読み書き、計算で脳機能が向上するのか
学習療法は誰でもできる作動記憶のトレーニング
読み書き・計算が脳のトレーニングに良いのはなぜでしょうか? そのキーワードになるのが「作動記憶(ワーキングメモリー)」です。作動記憶とは、例えば、電話をかけるときに一旦番号を覚えておく、人の言ったことを覚えてメモに取るといった場面で使われる記憶力です。人が何かを行おうとするときに必ず必要となる記憶力で、その行動が終われば忘れられてしまうという記憶です。
この作動記憶のトレーニングをすると、多くの情報を頭に入れてスムーズに物事に対処することができるようになりますが、のみならず、その他の能力が一緒に伸びやすいということも確かめられています。学習療法によって様々な認知機能が向上するのはこの働きがあるからです。
作動記憶のトレーニングには様々な種類のものがありますが、ほとんどのものは高齢者の方、特に認知症のある高齢者が行うことは困難です。その点、読み書き・計算は、だれにでも経験があるもので、一人ひとりの認知レベルに合わせてレベルを設定しやすく、まさに高齢者の作動記憶のトレーニングとして最適な課題といえます。

学習者の生活面での変化
学習者の変化は、脳機能検査の数値の改善だけでなく、生活面にもみられます。脳機能が改善、活性化することにより、生活の質(QOL)が高まってきていることが全国から報告されています。ここではよく聞かれる代表的な変化についてご紹介します。
コミュニケーション面

- 笑顔が増え、表情が豊かになった。
例えば、施設利用以来 3 年間一度も笑ったことのない方が笑った。険しい表情が和らいだ。 - 自分の意思を積極的に示すようになった。レクリエーションの参加も自分で判断するなど。
- コミュニケーションが増えた。
人に関心を示さなかった方が、スタッフに自ら話しかけてきたり、
またフロアでご利用者同士談笑するようになるなど。また家に帰ってから家族に通所での様子を話すなど。 - 冗談を言って笑わせようとするようになった。
意欲面
- スタッフや一緒に学習しているご利用者の名前を覚えようとする。
これまで「看護婦さんー!」としか呼ばなかった方がスタッフを名前で呼んでくれるようになるなど。 - 学習を楽しみにされ、生きがいを感じるようになった。
学習の始まる前から準備して待っているなど。 - 生活全般に意欲が出て、レクリエーションやリハビリにも参加するようになった。
- しばらく遠ざかっていた趣味にまた取り組むようになった。
編み物をする、囲碁をするなど。

身辺自立面
- 排泄・着衣・食事・掃除・片付けなど自分でできることは自ら行うようになった。
- 尿意を感じるようになり、スタッフに伝えられるようになった。おむつからリハビリパンツになり、一部介助で大丈夫になった。
- リハビリに積極的に取り組み、車いすから杖歩行ができるようになった。
- 家でも簡単な料理や、洗濯物干しをするようになった。

周辺症状の緩和
- 介護に協力的になり、介護者の負担が減った。
- うつで、部屋に閉じこもっていた方が、フロアに出て談笑されるようになった。
- 暴言・暴力が見られなくなった。
夜中壁を叩いて騒いでいた方が、穏やかになり、言葉がやさしくなったなど。 - 徘徊がなくなり、落ち着いて座っていられるようになった。
- 帰宅願望が減った。
毎日「帰る、帰る」と言っていた方が、「来年の正月もここにいてもいいよ」と言われたなど。 - 被害妄想がなくなった。
物盗られ妄想が、「どこかに置き忘れたので一緒に探して」と言うようになったなど。 - 夜間良眠されるようになった。

認知機能面

- 過去の記憶がよみがえってきた。
子どものころのことや、仕事をしていたころのことをありありと話してくれるようになったなど。 - 短期記憶が改善された。半日前から数日前のことを思い出して話をされた。
*学習者の事例はこちらからどうぞ